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ブリヂストンと筑後川

  • YAHIRO KAZURO
  • 2024年8月28日
  • 読了時間: 3分



工場設立

大正5(1916)年 25歳の石橋正二郎は、久留米市本町の裏屋敷にあった自宅工場を筑後川の河畔へ移す計画に着手。この地に用地を選んだのは、筑後川河畔で景観がよく、広告宣伝に役立つし、用水の便がよく、また久留米駅に近い点などの条件によるものであった。

最初入手したのは、わずか三千坪(9918平方メートル)の窪地で、年々洪水のために浸水する荒地なので坪一円であった。そこに川砂を敷いて8メートルほど埋め立て、煉瓦建一千坪の工場を造りその後次々と拡張していった。(「私のあゆみ」)

父の死後、正二郎兄弟の心の糧は母のまつであったが、筑後川の河畔に工場を建てよう「とする話しを聞いたまつは、易者のところへいき「ここに工場を立てれば繁盛限りなし」という卦が出たと兄弟を激励した。大正7(1918)年 筑後川河畔洗町に新工場が建ち、日産2万足となった。


リバーサイドゴルフ場

終戦後、筑後川の「リバーサイドゴルフ場」を従業員たちが造った。やがて地域の人々も一緒にゴルフを楽しむようになった。

正二郎が「ゴルフは絶対に普及する」との直感からゴルフボールの生産を開始したのが昭和9年。4年後には「贅沢品」と見なされ、中止のやむなきに至った。

昭和25年に贅沢品は解除されゴルフボールの生産が開始された。

リバーサイドゴルフ場は久留米市民のゴルフ場となり、多くの愛好家が憩う場となっている。現在、久留米市が運営。

1931年にブリヂストンタイヤ(現ブリヂストン)を設立。


昭和28年災害

1953年6月久留米は筑後川の氾濫により家屋のほとんどが水に浸かってしまいました。久留米工場は救護隊を編成し、市民救助に尽力しました。工場は、ボイラー室、ポンプ室、バンバリー室、機械倉庫が浸水しましたが、昼夜兼行の復旧作業で1週間後には一部の生産を再開させることができました。しかし完全復旧までには約1か月を要しています。従業員やその家族には、幸い死傷者を出すことはありませんでしたが、罹災状況は深刻なものでした。社宅は水浸しとなり、被害が大きかったところでは100戸が5日間屋根まで水に浸かっていたといいます。

当社は被害のあった建物の修復にとどまらず、福利厚生施設の復興計画として着手。水に弱い木造の社宅や寮を高層のコンクリート建てに改築、周辺には幼稚園や児童館、BS会館、体育センター、マーケットを配したコミュニティーをつくるという、石橋社長のアイデアが構想の骨子となっていました。(株式会社ブリヂストン HP)

 

合唱組曲「筑後川」

昭和43年(1968)年に石橋文化ホールを拠点とし活動する久留米音協合唱団が。ホールと共に5周年を迎える時に、幹一郎(2代目社長)は「郷土の讃歌になるような合唱曲を」と、筑後川を主題にした作品を構想し、郷土の詩人・丸山豊と作曲家で義弟の團伊久磨に委嘱した。

五楽章からなり、楽譜の冒頭に〝筑後なる石橋幹一郎に〟の献辞が付されている。

正二郎はね -ブリヂストン創業者父子二代の魂の軌跡)

石橋文化ホールにおいて作曲者自身の指揮により初演された。1997年 石橋幹一郎 氏が亡くなった時に市民葬でも演奏された。


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