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筑後川のなりたち研究会
『田中政義翁の奮闘』
文化年間(1804~1817年)、楢原平左衛門(今山村庄屋)という者が初めて治水策を考え、しばしば藩庁へも進言したものの、大規模な土木工事となるため、なかなか事業に着手できず、そのうち彼は死没した。
楢原平左衛門の外孫であった田中政義は祖父の意志をつぎ、筑後川の治水自分一生の任務」と考え、日本国内を歩きまわり、地形や川の水勢を測量したりと、寝食を忘れるほどの熱心に調査を続けた。嘉永3年(1830年)大洪水が起きたとき、田中政義は被災地の救済活動に尽力しつつ、川流模型を作り治水の具体策(①3放水路の開削、②川幅の拡幅、③荒籠を除き流路の改善)をもって藩庁へ工事を要望したが、巨額の費用がネックとなり、議論が進展しないままに明治維新となり、議論が打ち切られてしまった。
明治になって再び水害が頻発するようになり、福岡県庁は田中政義を内務省へ送り、自身の治水策をもって陳情させた結果、内務省は測量に着手し、明治17年久留米に土木監督署を設置し、技師・石黒五十二に筑後川の改修を担当させ、明治19年ついに改修工事実施の運びとなった。
しかし、工事費用の半分の重い負担を命じられた流域自治体は、お互いの利害が衝突し話がまとまらなかった。
この悶着状態に対し安場保和福岡県知事が県会の否決を政治的妨害とみなして原案で政府へ申請し、明治20年4月ようやく改修工事着工。明治36年に改修工事完了した。
この田中政義翁らの功績を後世に伝える石碑「餘澤千歳」が建立された。
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